陽のあたる毛の会
How do you choose it?

◎「結婚」を三つの要素にわけてみよう!
冊子の冒頭に書いた「三つの要素にわける」こと。バッシング分析をする中で、これは、思っていた以上に重要な視点だったと気がついた。
三つの要素。「制度」「社会的な力」「それぞれの気持ち、生活」
「結婚」と言ったとき、具体的なそれぞれを思い浮かべず観念のようなものとして話されていて、三つの要素のどこの話なのか意識されない。三つの要素をごちゃまぜにしながら、話がされている。

また、「気持ち、生活」のこととして「結婚」を語っていることが多い。「制度」「社会的な力」が「結婚」(特に法律婚)には、必ず備わっているけれど、とにかく個人の「気持ち、生活」のこととして話される。
「結婚」や「婚姻制度」について話すのは、とても難しい。伝わっていきにくい。はなから「問題」として捉えさせてくれない。話すこと自体に拒否反応を示す人が結構いる。一言で話すのは、無理だと感じてきた。
この「伝わりにくさ」と「三つの要素が混同され、気持ちや生活のこととして語られること」との関連が見えてきました。

三つの要素の混同が、伝わりにくさを生む要因
①制度、慣習を問い直すことから、目を背けさせられる。
②自己責任になる。
③対立構造ができる。生き方批判と見える。
④セットで選ばされる。自分が本来「選んだ」のが何なのか、見えにくくする。

◎「三つの要素の混同」と「伝わりにくさの要因」について考えてみました

①制度、慣習を問い直すことから、目を背けさせられる。
「個人の自由」「個人の選択の問題」とされた途端、「制度についての問い直し」「慣習や社会的力の持つ意味を考えること」に至らなくなる。今の時点で個人が何を選ぼうと、今ある制度や慣習について考えることはしてもいい。「結婚」を「気持ち、生活」について言ったものと捉えてしまうことで「個人の自由」で話が終わってしまう。「制度」「慣習」をそこから切り離して、問い直してみることができなくなってしまう。

②自己責任になる。
これ重要!結婚は、それぞれが「気持ち、生活、関係」を選ぶもの。制度や慣習によるおかしな点、不備、困る人が出てきても「あなたが選んだんだ」と片付けられてしまう。結婚の中で、何か困ったこと、嫌なことが起こっても「選んだ私が悪い」「選ぶ相手を間違えた」と思ってしまう。「制度」「慣習」は「あるもの(自分で決められない)」けど、「気持ち、生活」は自分が選んで決めたもの。「結婚」がただ「気持ち、生活」について言ったものだと捉えられることによって、「制度」「慣習」までも含めたすべてを「自分が選んだから仕方ない」と引き受けらさせられてしまう。

③対立構造ができる。生き方批判と見える。
この見方を本当によくされてしまう。「結婚」そのものへの批判が「結婚している人」への批判(そんなこと何も言っていない場面で)と見えてしまう。これも「結婚」が「気持ち、生活」について、その人が選んだ生き方を言ったものとして捉えられることが要因。今の社会で「結婚」や「法律婚」をしている立場の人も(むしろ、「結婚している人」こそ)「婚姻制度」や「結婚」そのものについて考えたっていいはず。

④セットで選ばされる。自分が本来「選んだ」のが何なのか、見えにくくする。
「結婚という生き方」「結婚という選択」という言葉を聞く。バッシングの中でも多数あった。この言葉、なんとなく疑問だった。それで、自分の生き方を「結婚という生き方」と言っているこの人「この人が選んだのは何なんだろう?」「どういう気持ちなんだろう?」と考えてみた。「一人一人違うだろうな」と思った。一人一人が違っているだけで、「結婚/非婚」で何か特定の違いがあるわけじゃない。選択や関係、生き方を見るならば、誰もみんなそれぞれに固有で、「結婚という選択」「婚姻関係」「結婚という生き方」そんな生き方グループとしてくくれるものはない。選択、関係、生き方は、その人その時それぞれに持っている。「結婚」はそこに「制度」や「慣習」による付加価値をつけるものなのだ。とわかってきた。気持ちや関係、生活はそのままにあって、そこに名前をつけたり、良い悪いイメージをつけたり、後ろ盾をつけたり、優遇をつけたり、はくをつけたり・・・この効果や仕組みが「結婚」なんだ。
こうした効果が欲しいのかな?欲しいとしたら何でなの?他にもっといい方法があったりしないかな?そんなふうに考えてみることができる。「私が選んだのは結婚という生き方なんだ」と思ってしまうことで、自分が選びたかったのはどこなのか、そのやり方なのか、根本のところから考える余地がなくなってしまう。また、こうした効果が必要だと感じるのは、効果なしのそのままでは「ひとりひとりの生き方」が尊重されない社会だからだったりする。「生き方」を大事に思うなら、「結婚」や「婚姻制度」自体、それが存在する社会が「自分の生き方」を尊重してくれる形なのか考えてみないと。

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